法華経の智慧より
文上の法華経には「本尊」がないということです。
結論として、法華経は何を本尊とせよと言っているのか、わからない。
文上の本門では、釈尊の一身に仏界と九界がともに永遠に具わっていると言っているだけで、そうならしめた「本因(南無妙法蓮華経)」は説かれていない。
釈尊が師とした、この本因を、直ちに、そのまま説くのが「本因妙の教主」です。
日蓮大聖人は「其の教主は某(それがし)なり」(百六箇抄)と宣言されています。
譬えていえば、文底の仏法(南無妙法蓮華経)は、「太陽」です。本門の説法(釈迦の法華経)は、太陽の光を反射して輝く「月」です。
法華経に本尊が説かれていないことは、古来、最大の謎とされてきました。
その謎を史上初めて解き明かしたのが、日蓮大聖人です。
南無妙法蓮華経こそが本尊であり、釈迦の法華経は解説書に過ぎません。
したがって、末法今時においては、本尊を説かない釈迦の法華経で成仏することはできないのです。