「福運が貯まる」「福運が尽きる」などという言い方をよくします。
そういうと、福運は何か貯金のようなものの気がしますが、それはあくまで表現上の方便です。
過去にどれだけ強信の人であっても、信心を完全に失ってしまえば、その時点で福運は尽きます。
福運は一瞬一瞬の信心で決まるものであり、未来に繰り越すことはできません。だから信心は生涯貫かねばならないのです。
逆に言うと、退転したからと言って、ただちに福運が尽きるわけではありません。
一般的に、学会活動に参加しなくなり、題目を挙げなくなっても、すぐさま大聖人を憎むようにはならないからです。個人差はありますが、ある程度の福運は残ります。
富木常忍は本尊に迷うところがあり、晩年には日興上人から離反してしまいましたが、大聖人への尊崇は生涯変わりませんでした。
退転して和合僧を乱した罪はあるものの、比較的福運は残っており、それが現在の評価につながっていると言えます。
それに対して三位房のように、退転して直ちに悲惨な死を遂げる場合もあります。死因は不明ですが、若くして事故死したと推測されています。
三位房はもともと大聖人を軽んじるところがあり、内心では怨嫉があったのでしょう。そのため、反逆した時点で、信心もほとんど失っていたと思われます。
熱原法難で退転したばかりか、自ら進んで法華衆を弾圧する側に回ったとされます。これ以上の裏切りはなく、諸天の怒りによって直ちに「処刑」されたのでしょう。