希望対話より
「いじめは昔もあった。たいしたことない」とか「こんな時代だから、少しくらい仕方がない」などという声もある。とんでもない!
誰が何と言おうと、いじめは「絶対に」悪です!
完全な人間なんかいない。欠点だらけです。だからといって、その人をいじめていいことになりますか?
いじめている側の方が、よっぽど不完全で、卑怯ではないか。
だから、いじめられている人は、決して、自分を恥ずかしいと思ってはいけない。恥ずかしがらないといけないのは、いじめている側です。
勉強ができても、できなくても、いじめられる。
太っていても、やせていても、いじめられる。
暗いからといっていじめられ、反対に目立つからといっていじめられ、じゃあ、どうしたらいいのか?
だから、いじめられる側の責任じゃないのです。100%、いじめる人間が悪い!
たとえ、相手が悪くても、いじめてはいけないのです。
相手がウソをついたら、ナイフで傷つけてもいいのか? そんなことはない。
それと同じです。
どんな理由も、理由にならない。
いじめている人間が、強い人間なのか? そうじゃないでしょう。
人間として、一番弱い、一番醜い心ではないですか。
そういう暴力人間を強いように勘違いしているところに、いじめの根源がある。
いじめられている人は、自分が悪いんだなどと思ってはいけない。
「自分は、一生、人をいじめるような人間にはならない」と決意することだ。
もちろん、状況は千差万別だから、こうすれば絶対解決するというマニュアルはないともいえる。
ただ、どんな場合にも言えることは「1人で悩まない方がいい」ということです。
誰にでもいいから、いじめの事実を伝えることだ。
いじめている側は、それを多くの人に知られることが一番嫌なんです。
人権侵害には、反撃することが正しいのです。
2人で1人をいじめたら、やっているほうは2人だから、何となく責任も2分の1くらいに感じるかもしれないが、やられているほうは2倍の苦しみだということです。
感じる差は4倍です。
5人で1人をいじめたら、どうなる?
20人のクラスメートに無視されたら?
いじめる側が軽くしたつもりのことも、被害者には何十倍、何百倍の圧迫になって襲い掛かるということです。
君でなければできない使命が、必ずある。
そうでなければ、今ここに君が生まれてきてはいないはずだから。
宇宙には、何ひとつ無駄なものはないのだから!
悪に対して「自分には関係ない」と思う。
見て見ぬふりをする。
それが実は「悪を応援する」ことになる。
牧口先生は、いつも先頭に立って、悪と戦った。
だから、いつもいじめられていた。
当時の教育界からも、信仰心をなくした僧侶からも、国家権力からも。
悪からいじめられ通した人生です。
最低限言えるのは、絶対に自分はいじめに加わらないこと。そして御本尊に、いじめられている子のことを真剣に祈ってあげること。
できれば、何らかの方法で、その子に自分の心配している気持ちを伝えること。
みんながいじめられている人に、手を差し伸べたとする。
だからといって、感謝されるとは限らない。
いじめられてきた人は、心が傷ついているから、人間を、なかなか信じられない場合が多い。
反発にあっても、怒ってはいけない。分かってあげなければいけない。
腹が立つのは、助けてあげているんだという心の驕りがあるからです。
いい人ほど、いじめられている場合が多いんじゃないだろうか。
だから、弱い者いじめではない。「いい人いじめ」です。
誰が自分から、暗い性格になりますか!
そうなってしまったとしたら、誰かが、そうさせたのです。
あなたが悪いんじゃないんだよ!
心の優しい人がいじめられる世界の方が、さかさまになっているのです。
さかさまになった世界では、いじめられているあなたの方が、正しいのです。
心から血を流している人に対して、傷の手当てもしないで、がんばれというのは間違いです。
その人を苦しめている原因を、いっしょに取り除いてあげなければいけない。
人をいじめておいて「あの人が、こうだから、ああだから、だから、いじめた。いじめられる方が悪い」そんな理屈は成り立たない。
「あの家は、戸締りが悪かったから盗まれた。盗まれる方が悪い」
「あの人は、人がいいから、だまされた。だまされるほうが悪い」
そんな理屈は、泥棒が喜ぶだけです! 泥棒の味方の論理です。
君が自分で自分を、だめだと思っても、私はそうは思わない。
あなたが自分で自分を見捨ててしまっても、私は見捨てない。
私の世界の友達も、みんな、いじめられてきた人ばっかりです。
全員がそうだよ! ひとり残らず、そうだよ!
偉い人は、みんな、いじめられてきた。人をいじめて、偉くなった人はいません。
君が、あなたが、勝つことは、自分のためだけじゃない。正義のためです。
君だけの戦いじゃない。君だけの苦しみじゃない。
創価学園では、いじめの加害者は退学が原則です。
日本人は、安易に「いじめられたほうにも原因がある」と考え、事を穏便に済ませようとしますが、これは悪を擁護する考えであり、完全な与同罪です。
いじめられたほうが転校するのも、本来はおかしな話で、いじめた側が転校すべきです。
集団いじめならば、参加した全員を出席停止にしなくてはいけません。
そんなことをしたら、保護者から苦情が殺到し、大問題になるでしょう。
1人がいじめられるのは、本来そのくらい重大なことなのです。
いじめが絶対悪であることを教えるのが、教育なのです。