新・人間革命「大山」より
山本伸一には、以前から考えてきたことがあった。それは、会長の交代であった。
一人の人間が長期間にわたって責任を担っていたのでは、人材は育ちにくい。
令法久住のためにも、早く後継の流れをつくっておきたいというのが、彼の願いであった。
会長就任10年を経た1970年に、いつかは辞任したい旨の意向を何度か執行部に伝えたが、会長は「終身」であることを理由に反対された。
また、74年に、宗教法人としての創価学会の代表役員を理事長に委譲した際や、77年にも交代の話を出したが認められなかった。
会長の辞任は、宗門ではなく、学会が決めることだ。
私が会長を辞めるのは、前々から考えてきたことであり、学会の未来を開くためだ。
新会長を中心に、みんなでやっていくんだ。いつまでも私を頼っていてはいけない。
これまで私は、全力で指導し、皆の育成にあたってきた。すべてを教え、伝えてきた。
卒業のない学校なんかない。
弟子が本当に勝負すべきは、日々、師匠に指導を受けながら戦っている時ではない。それは、いわば訓練期間だ。
師が、直接、指揮を執らなくなった時こそが勝負だ。
しかし、師が身を引くと、それをいいことに、わがまま放題になり、学会精神を忘れる人もいる。戸田先生が理事長を辞められた時もそうだった。
君たちは、断じてそうなってはならない。
新・人間革命「雌伏」より
君たち一人ひとりが山本伸一なんだよ!
新・人間革命「仏法西還」より
組織の発展のためには、常にマンネリの古い殻を打ち破る斬新な発想と、みずみずしいエネルギーが必要だ。
それは若い力に期待する以外にない。
伸一は、新しき創価の時代を開くために、青年たちが1日も早く、学会のいっさいの責任を担い立つことを願っていた。
新・人間革命「広宣譜」より
伸一には、「広布の未来を展望し、しかるべき人材の流れができたならば、日本の創価学会の会長職は委ねて、自分は世界の広宣流布と平和のために、自由に、全力で走り回りたい」という強い思いがあった。
昭和57年4/15本部幹部会より
私は、幹部会などは、次代のリーダーに一切、任せていきたいと思ってきました。
広布への操縦桿を1人だけ握っていては、将来が不安だったからです。
多くの人々が、誤りなく操縦桿を握れるように鍛錬していくことが、誠に重要であることを知悉していたからです。
よく「学会は池田大作の独裁組織だ」などという的外れの批判がありますが、事実はこのように、先生はできるだけ早く後継者との交代を希望され、権限も分散させていきました。
当時の執行部は、まだまだ先生に甘える気持ちが強く、なかなか受け入れられなかったのが現実です。
何年も辞めさせてもらえなかったこと自体、先生が独裁者などでは無かったことを物語っています。
しかし、広宣流布の主体者はいつの時代も常に青年です。いつまでも師匠が全てを決めていれば、かえって弟子が育たなくなってしまいます。
大聖人は立宗からほぼ20年で身延に入られ、後の闘いを青年たちに託しています。
池田先生もやはり、会長就任からほぼ20年で勇退を決断され、後継育成を本格化されたのです。
また、師匠が権限分散を進めてきたことにも注目すべきです。
個人に仕事が集中してしまっては、組織の意味がありません。
役職を抱え込みすぎると、全て中途半端になるうえ、他の人を育てるチャンスも奪うことになってしまいます。かえって組織を停滞させてしまいます。
優先順位を定め、今はできないと思ったら無理をせず断りましょう。
また、後輩にも仕事を割り振っていくことです。
現在、会長の任期は4年に短縮されています。青年へのスムーズな継承がしやすい制度が整ってきています。
後は、人材です。特に、後継の自覚ある青年の存在が不可欠です。
日興上人が大聖人より相乗を受けたのは満36歳です。日目上人は30歳で相乗を受けています。
池田先生の会長就任は32歳です。
次の会長こそ、青年部から出さなくてはいけません。
それこそが師の念願です。
青年全員が会長の自覚を持って立ち上がる時が来ているのです。