忍者ブログ

21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

神札拒否は牧口先生の独断だったか

神札拒否こそ学会の原点であることは、会員なら誰もが知っていますが、これは当時の幹部が協議を重ねた上での決定だったのでしょうか?

法主である日恭(後に失火で焼死)が、神札を受けると決めていた以上、その可能性は低いでしょう。

つまり、牧口会長の独断であった可能性が高いと考えられます。

創価教育学会は信徒団体ですから、会長と言えど、本来、宗門の指導に従うべき立場にあります。

今で言ったら、人材グループの中心者が、本部の指導を無視して独断で動くようなものです。さらに結果として組織は壊滅ですから、完全に組織人失格です。

困ったことに、この人が我らの永遠の師匠なのです笑

当時の幹部にとって、会長の神札拒否宣言は晴天の霹靂だったはずです。

おそらく、投獄された幹部たちには、

「我々に相談しないで決めるとは、会長は独裁的すぎる」

「いくら会長でも、これは組織の私物化ではないか」

「せめて会長を辞任してから、単身で拒否すべきではないか」

「猊下の決定に背いて宗内の団結を乱すのは破和合僧だ」

「今は組織を守り、時を待つべきではないか」

「会長はあまりにも原理主義的かつ教条主義的であり、ついていけない」

そうした不満が渦巻いていたはずです。すべてもっともらしいからこそ、恐ろしいのです。

「まことの時は忘れる」のです。

おそらく牧口先生は、あえて幹部たちの了解を得ず、独断で権力との対決を決めることで、一切の責任を引き受けるともに、真の弟子を見極めようとされたのでしょう。

「全て会長が独断で決めたことで、私は何も知らなかった」

そう供述すれば、すぐに釈放してもらえますし、事実ほとんどの幹部がそうしたはずです。

最後まで師に付き従ったのは、戸田先生だけでした。

確かに、組織の運営者として、世法の次元において、牧口先生は「落第生」かもしれません。

しかし、そもそも信心の師匠が「組織屋」である必要などありません。守るべきは法であり、組織ではありません。

組織は法の器に過ぎず、器を守るために中身を捨てては本末転倒です。

日恭に信心が無かったとは言いません。宗内が神札拒否で一致団結できない以上、ひとまず組織を守って時を待つというのは、長として常識的な判断でしょう。少なくとも世法の次元では。

結局、彼にとっての信心とは「南無日蓮正宗」だったのです。法ではなく組織に南無していたにすぎません。法華経ではなく全体主義です。

法に背いて神札を受けた時点で、宗門は和合僧の資格を失いました。よって先生の行動は破和合僧とはなりません。

君たち青年も、おかしな指導をする中心者がいたなら、断じて従わず、堂々と諫めていってください。それが仏道修行です。

「法を守るための団結」が和合僧です。法をないがしろにした、団結のための団結は全体主義であり、派閥主義にすぎないのです。








一、時の貫首爲りと雖も佛法に相違して己義を構へば之を用ふべからざる事。

一、衆議爲りと雖も、佛法に相違有らば貫首之を摧くべき事。


日興遺誡置文


拍手[47回]

PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

最新記事

プロフィール

HN:
真蓮 ※削除依頼等はお手数ですが「拍手」をクリックしてからコメント欄に記入してください。
性別:
非公開

P R