諸法実相抄より
釈迦・多宝の二仏と云うも用の仏なり、妙法蓮華経こそ本仏にては御座(おわし)候へ
凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり
本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり
百六箇抄より
久遠の本師は妙法なり、本有実成の釈迦・多宝は迹なり
このように、日蓮は釈迦本仏論を明確に否定しています。
「凡夫 = 妙法蓮華経」を本仏としていることは明らかです。
にもかかわらず、身延では釈迦牟尼仏を本尊としています。
したがって身延の題目を唱えても、心で「南無釈迦牟尼仏」と唱えているに等しいので、功徳は全く無いのです。
「心こそ大切なれ」です。