本来、お題目の功徳は、一生かけても讃嘆しきれないほど素晴らしいものです。
それなのに、どんなにお題目を挙げても祈りが叶わないのは、まず第一に「あまり信じていない」からです。
お題目の妙力を半分しか信じていないのであれば、やはり祈っても半分しか叶わないのです。
このお題目に不可能はありません。そう信じて祈ることです。
第二に
「叶うと不幸になる祈り」は、自然に叶わなくなります。
例えば「死んだ家族を蘇らせてほしい」と祈ったとします。もしそれが叶ったら、ゾンビになってしまいます笑
こうした場合は、蘇るのではなく、すぐに健康な身体で生まれてきます。
凡夫にはそれがよくわからないので、祈りが叶わないと誤解するのです。
第三に、祈りによって叶うまでの時間が異なることを忘れているからです。
大功徳ほど、目に見えて顕れるまでに時間がかかります。
祈るのは種を植えることです。種は育てば必ず芽を出し、いつか必ず大木に育ちます。
つまり、祈った瞬間に叶うと決定しています。一瞬です。ただ、形として顕れるまでしばらく時間がかかるのです。
それを、すぐ大木にならないからといって退転してしまうのは、せっかく植えた種を掘り起こしてしまうようなもので、まったくもったいないことです。
第四に「御本仏への報恩感謝を忘れている」からです。
三大秘法と言っても、天から降ってきたわけではありません。
人本尊あっての法本尊です。
三大秘法を残してくださった、御本仏大聖人への感謝こそ、一切の信心の源です。
これを忘れれば、どんなにお題目を挙げても功徳はありません。
まして、
祈りが叶っても感謝せず、叶って当たり前だという根性では、功徳が消えて当たり前です。
ひとつでも祈りが叶うのは、当たり前のことではなく、有難いことなのです。
釈尊にさえ見捨てられたわれら末法の衆生を、日蓮大聖人だけは見捨てなかったのです。
この大恩を忘れず、自行化他の信心に励むことが、御本仏への恩返しなのです。