*漢字変換できない語は、ひらがな表記してあります
生命の本質論
1、生命の不可思議
わが国の神道が超国家主義、全体主義に利用されて、ついには無謀なる太平洋戦争にまで発展していったときに、私は恩師故牧口常三郎先生および親愛なる同志とともに、当時の宗教政策のはなはだ非なることを力説した。
すなわち、日本国民に神社の礼拝を強制することの非論理的、非道徳的ゆえんを説いたのであるが、
そのために昭和十八年の夏弾圧されて、爾来(じらい)二か年の拘置所生活を送ったのであった。
冷たい拘置所に、罪なくとらわれて、わびしいその日を送っているうちに、思索は思索を呼んで、ついには、人生の根本問題であり、しかも難解きわまる問題たる「生命の本質」に突き当たったのである。
「生命とは何か」「この世だけの存在であるのか」「それとも永久につづくのか」
これこそ永遠のナゾであり、しかも、古来の聖人、賢人と称せられる人々は、各人各様に、この問題の解決を説いてきた。
不潔な拘置所にはシラミが好んで繁殖する。春の陽光を浴びて、シラミはのこのこと遊びにはいだしてきた。私は二匹のシラミを板の上に並べたら、彼らは一心に手足をもがいている。
まず一匹をつぶしたが、他の一匹はそんなことにとんぢゃくなく動いている。
つぶされたシラミの生命は、いったいどこへ行ったのか。永久にこの世から消えうせたのであろうか。
また、桜の木がある。あの枝を折って花びんにさしておいたら、やがてつぼみは花となり、
弱々しい若葉も開いてくる。
この桜の枝の生命と、もとの桜の木の生命とは別のものであるか、同じものであるのだろうか。
生命とはますます不可解のものである。
その昔、生まれてまもないひとりの娘が死んで、悩み、苦しみぬいたことを思い出してみる。
そのとき、自分は娘に死なれてこんなに悩む。もし妻が死んだら(その妻も死んで自分を悲しませたが)
・・・・・もし親が死んだら(その親も死んで私はひじょうに泣いたのであったが)・・・・・
と思ったときに身ぶるいして、さらに自分自身が死に直面したらどうか・・・・・
と考えたら、目がくらくらするのであった。それ以来、キリスト教の信仰にはいったり、または阿弥陀経によったりして、たえず道を求めてきたが、どうしても生命の問題に関して、心の奥底(おうてい)から納得するものはなにひとつ得られなかった。
その悩みを、また、独房の中で繰り返したのである。
元来が科学、数学の研究に興味をもっていた私としては、理論的に納得できないことは、
とうてい信ずることはできなかった。そこで私は、ひたすらに、法華経と日蓮大聖人の御書を拝読した。
そして、法華経の不思議な句に出会い、これを身をもって読みきりたいと念願して、
大聖人の教えのままにお題目を唱え抜いていた。唱題の数が二百万遍になんなんとするときに、
私はひじょうに不思議なことに突き当たり、いまだかつて、測り知りえなかった境地が眼前に展開した。
喜びに打ち震えつつ、ひとり独房の中に立って、三世十方の仏・菩薩いっさいの衆生に向かって、かく叫んだのである。
「遅るること五年にして惑わず、さきだつこと五年にして天命を知りたり」と。
かかる体験から、私はいま、法華経の生命観に立って、生命の本質について述べたいと思うのである。
2、三世の生命
法華経譬喩品(ひゆほん)にいわく
「爾(そ)の時に仏、舎利弗(しゃりほつ)に告げたまわく、吾れ今、天、人、沙門(しゃもん)婆羅門(ばらもん)等の大衆の中に於(お)いて説く。我昔曾(かつ)て二万億の仏の所(みもと)に於いて、無上道の為の故に、常に汝を教化す。汝亦、長夜に我に随(したが)って受学しき。
我方便を以って汝を引導せしが故に、我が法の中に生ぜり。舎利弗、我昔、汝をして、仏道を志願せしめき。汝今悉(ことごと)く忘れて、便(すなわ)ち自ら已(すで)に滅度を得たりと謂(おも)えり。我今還って、汝をして、
本願所行の道を憶念(おくねん)せしめんと欲するが故に、諸(もろもろ)の声聞の為に、是の大乗経の妙法蓮華、教菩薩法、仏所護念と名づくるを説く。舎利弗、汝未来世に於いて、無量無辺不可思議劫を過ぎて、若千(そこばく)千万億の仏を供養し、正法を奉持(ぶじ)し、菩薩所行の道を具足して、当(まさ)に作仏することを得べし」
*注・法華経譬喩品にいわく
譬喩品第三で、仏の述成と授記を明かす文である。舎利弗等の声聞の弟子たちは、釈尊が過去世において二万億の仏のもとで説法していたときに、釈尊に従って仏道修行を励んだのである。
そうした過去世の因縁によって、釈尊がインドに出現したときにはまた「わが法の中」すなわち釈尊の弟子として生まれることができたのである。
しかして未来には、無量無辺不可思議劫という長い時代を経て、成仏するであろうと授記をしている。以上、生命が過去、現在、未来の三世にわたることの証明に引かれた経文である。
化城喩品(けじょうゆほん)にいわく
「是の十六の菩薩沙弥(しゃみ)は、甚(はなは)だ為(こ)れ希有(けう)なり。諸根通利して智慧明了なり。
已(すで)に曾(かつ)て、無量千万億数の諸仏を供養し、諸仏の所(みもと)に於て、常に梵行(ぼんぎょう)を修し、
仏智を受持し、衆生に開示して、その中に入らしむ。
汝等皆、当(まさ)に数数(しばしば)親近して、之を供養すべし。所以(ゆえん)は何(いか)ん。若し声聞、
辟支仏(ひゃくしぶつ)、及び諸(もろもろ)の菩薩、能く是の十六の菩薩の、所説を信じ、受持してそしらざらん者、
是の人は皆、当(まさ)に阿耨多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)の如来の慧(え)を得べし。
仏、諸の比丘(びく)に告げたまわく、是の十六の菩薩は、常に楽(ねが)って、是の妙法蓮華経を説く。
一一の菩薩の所化の、六百万億那由佗恒河沙(なゆたごうがしゃ)等の衆生は、世世に生まるる所、菩薩と倶(とも)にして云云」
*注・化城喩品にいわく
化城喩品第七に、三千塵点劫前の大通智勝仏の因縁を説かれている文である。十六の菩薩沙弥とは、十六王子である。この十六王子は、出家して仏道に励み、すでにかつて無量千万億数の諸仏を供養してきたのである。しかして、この王子たちの弟子は、六百万億那由佗恒河沙というたくさんの弟子たちであるが、未来世においては世々に菩薩とともに生まれてきて、仏道修行に励んでいくのである。
如来寿量品にいわく
「諸(もろもろ)の善男子(ぜんなんし)、如来諸(もろもろ)の衆生の、小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはつくじゅう)の者を見ては、是の人の為に、我少(わか)くして出家し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来(このかた)、久遠なること斯(かく)の若(ごと)し」
自我偈にいわく
「我仏を得てより来(このかた)、経たる所の諸(もろもろ)の劫数(こうしゅ)無量百千万億載阿僧ぎ(おくさいあそうぎ)なり」
*注・如来寿量品にいわく、自我偈にいわく
寿量品第十六には永遠の生命を説く。「久遠なること斯(かく)の如し」とか「無量百千万億載阿僧ぎなり」とは、永遠の生命を説く文である。
右の(大白蓮華掲載時のままの文章、このブログでは「上の」になります)経文は法華経のごく一部ではあるが、
およそ釈尊一代の仏教は、生命の前世、現世および来世のいわゆる三世の生命を大前提として説かれているのである。
ゆえに仏教から三世の生命観を抜き去り、生命は現世だけであるとしたならば、仏教哲学はまったくその根拠を
失ってしまうと考えられるのである。しかして、各経典には生命の遠近(おんごん)・広狭(こうきょう)によって、その経典の高下浅深(こうげせんじん)がうかがわれるのである。
さらに日蓮大聖人にあっても、三世の生命観の上に立っていることはいうまでもない。ただ釈尊よりも大聖人は生命の存在を、より深く、より本源的に考えられているのである。
開目抄(御書P186)にいわく
「儒家には三皇・五帝・三王・此等を天尊(てんそん)と号す(乃至)貴賤(きせん)・苦楽・是非・得失等は皆自然(じねん)等云云、
かくのごとく巧(たくみ)に立つといえども、いまだ過去・未来を一分もしらず玄(げん)とは黒なり幽なり、
かるがゆへに玄という、但(ただ)現在計りしれるににたり」
また(御書P232)いわく
「詮(せん)ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期(ご)とせん、身子(しんし)が六十劫の菩薩の行を退せし乞眼(こつげん)の婆羅門(ばらもん)の責を堪えざるゆへ、久遠大通(くおんだいつう)の者の三五の塵をふる悪知識に値うゆへなり、善に付け悪につけ法華経をすつるは地獄の業なるべし」
撰時抄(御書P269)いわく
「今の人人いかに経のままに後世をねがうともあや(過誤)まれる経経のままにねがはば得道もあるべからず、
しかればとて仏の御とがにはあらじとか(書)かれて候」
かかる類文(るいもん)はあまりにも繁多(はんた)であり、三世の生命なしには仏法はとうてい考えられないのである。これこそ生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。
しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ、自己の生命を、科学的に考えないうかつさを笑いたいのである。
およそ科学は、因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。
生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。
あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫(ほうまつ)のごとく消えて
なくなると考えて平然としていることは、あまりにも自己の生命に対してむとんちゃくな者といわねばならない。
いかに自然科学が発達し、また平等を叫び、階級打破を叫んでも、現実の生命現象はとうていこれによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり犬あり、虎あり、杉の大木があるが、
これらの生命は同じか、違うか。
また、その間の関連いかん。同じ人間にも、生まれつきのバカと利口、美人と不美人、病身と健康体等の差があり、いくら努力しても貧乏である者もおれば、また、貪欲や嫉妬に悩む者、悩まされる者などを、科学や社会制度では、どうすることもできないであろう。
かかる現実の差別には、かならず、その原因があるはずであり、その原因の根本的な探究なしに、解決されるわけがないのである。
ここにおいて、三世の生命を説くからといって、われわれは霊魂の存在を説いているのではない。
人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とかいうものがあって現世を支配し、さらに不滅につづくということを、
承認しているのではないことを明らかにしておく。
3、永遠の生命
人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん。これこそ、また、仏法の根幹であるゆえに、いま左(ブログの場合、下)の経文を引用する。
妙法蓮華経如来寿量品にいわく
「然るに善男子、我実に成仏してより已来(このかた)、無量無辺百千万億那由佗劫(なゆたこう)なり。譬(たと)えば、五百千万億那由佗阿僧ぎの三千大千世界を、仮使(たとい)人有(あ)って、沫(まつ)して微塵(みじん)と為して、東方五百千万億那由佗阿僧ぎの国を過ぎて、乃(すなわ)ち一塵を下し、
是の如く東に行きて是の微塵を尽くさんが如き、諸の善男子、意(こころ)に於て云何(いかん)。是の諸の世界は、思惟(しゆい)し校計(きょうけい)して、其の数を知ることを得べしや不(いな)や。弥勒菩薩等、倶(とも)に仏にもうして言(もう)さく。
世尊、是の諸の世界は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)の知る所に非ず。亦心力(しんりき)の及ぶ所に非ず。一切の声聞・辟支仏(ひゃくしぶつ)、無漏智(むろち)を以ても、思惟(しゆい)してその限数(げんじゅ)を知ること能わじ。
我等阿惟超越致地(あゆいおつちぢ)に住すれども、是の事の中に於いては、亦達せざる所なり。
世尊、是(かく)の如き諸(もろもろ)の世界無量無辺なり。爾(そ)の時に仏、大菩薩衆に告げたまわく、
諸(もろもろ)の善男子、今当(まさ)に分明(ふんみょう)に、汝等に宣語すべし。是の諸の世界の、若しは微塵を著(お)き、及び著(お)かざる者を、尽(ことごと)く以て塵(ちり)と為(な)して、一塵を一劫とせん。
我成仏してより已来(このかた)、復(また)此れに過ぎたること百千万億那由佗阿僧ぎ劫なり。是れより来(このかた)、我常に此の娑婆世界に在(あ)って説法教化す」
右(ブログの場合、上)の経文は釈尊の数多の経文中、もっとも大切な部分であり、悟りの極底(ごくてい)である。その大意をいうならば
「おまえたちは皆私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫という数えることもできないほど昔に成仏して以来、つねにこの娑婆(しゃば)世界にいて活動をしているのである」
という意味であり、自分の生命は現世だけのものではなく、また、悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである。さらに同じく寿量品の次の文は前文とは別の立ち場から拝すべきである。
「諸(もろもろ)の善男子、如来は諸の衆生の、小法を楽(ねが)える徳薄垢重(とくはつくじゅう)の者を見ては、是の人の為に、我少(わか)くして出家し、阿耨多羅(あのくたら)三藐(みゃく)三菩提(ぼだい)を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来(このかた)、久遠なること斯(かく)の若(ごと)し」
すなわち、右(ブログの場合、上)の文は福徳(ふくとく)の薄い心の濁った者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は無始無終であると説かれているのである。
日蓮大聖人におかれては、釈尊が仏の境涯から久遠の生命を観(かん)ぜられたのに対して、大聖人は名字即(みょうじそく)の凡夫位(ぼんぶい)において、本有(ほんぬ)の生命、常住の仏を説きいだされている。すなわち凡夫のわれわれの姿自体が無始本有の姿である。
瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかさず、つくろわず、もとのままと説かれているのである。
三世諸仏総勘文教相廃立(さんぜしょぶつそうかんもんきょうそうはいりゅう)(御書P568)にいわく
「釈迦如来・五百塵点劫(じんてんごう)の当初・凡夫にて御坐(おわ)せし時我が身は地水火風空なりと知(しろ)しめして即座に悟を開き給いき。後に化他(けた)の為に世世(せせ)・番番(ばんばん)に出世・成道(じょうどう)し在在(ざいざい)・処処(しょしょ)に八相作仏(そうさぶつ) 云云」
*注、三世諸仏勘文抄にいわく
五百塵点劫の当初とは、久遠元初である。「釈迦如来が凡夫でおわせし時」とは、名字即の釈尊であって、すなわち日蓮大聖人のことである。釈尊の仏法では、久遠元初とか、名字即の仏というようなことは説いていない。この文により、本因の境智行位が明らかである。我身は地水火風空(境)知る(智)(行)凡夫にて(位)
当体義抄(御書P513)にいわく
「聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時(いんがぐじ)・不思議(ふしぎ)の一法之れ有り之を名づけて妙法蓮華と為す
此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して闕減(けつげん)無し之を修行する者は仏因(ぶついん)・仏果(ぶつか)・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道(かくどう)し給えば妙因・妙果・倶時に感得(かんとく)し給うが故に妙覚果満(みょうかくかまん)の如来と成り給いしなり」
*注、当体義抄にいわく
日蓮大聖人の仏法を、名体宗用教の五重玄で明らかにされている。之を名けて妙法蓮華と為す(名)十界三千の諸法を倶足して闕減(けつげん)なし(体)、仏因仏果同時に之を得(宗)、師となして修行覚道し(用)
十法界事(御書P421)いわく
「迹門には但是れ始覚(しかく)の十界互具(ごぐ)を説きて未だ必ず本覚本有(ほんがくほんぬ)の十界互具を明さず(乃至)故に無始無終の義欠けて具足せず 云云」
御義口伝下(御書P752)にいわく
「されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号(ほうごう)を南無妙法蓮華経と云うなり、
寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立(はいりゅう)の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは
事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障(わくしょう)を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり
無作の三身の仏なりと究竟(くきょう)したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の儘(まま)を此の品の極理と心得可きなり」
*注、御義口伝下にいわく
「無作の三身とは末法の法華経の行者なり」とは、日蓮大聖人であらせられる。すなわち、日蓮大聖人の宝号を南無妙法蓮華経というのである。人法一箇の文である。
さて、すでに明らかなごとく、仏を中心として展開する釈尊の一念三千は、本迹ともに理のうえの法相であり、
凡夫の当体本有のままにおいて身につける大聖人の直達正観・事行の一念三千こそ、もっとも生命の実体を、
より本源的に説き明かされているものと拝する。
私に会通(えつう)を加えて本文をけがすことを恐るといえども、久遠の生命に関してその一端を左(ブログの場合、下)に述べていく。
生命とは宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは、なにびとかによってつくられて生じたものでもない。宇宙自体がすでに生命そのものであり、地球だけの専有物とみることも誤りである。
われわれは広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観・事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって「妙」なる生命の実体把握(はあく)を励んでいるのにほかならない。
あるいはアミーバから細胞分裂し進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。
しからば、赤熱の地球が冷えたときに、なぜアミーバが発生したか、どこから飛んできたのかと反問したい。
地球にせよ、星にせよ、アミーバの発生する条件が備われば、アミーバは発生し、隠花(いんか)植物の繁茂(はんも)する地味、気候のときにはそれが繁茂する。しかして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。
ゆえに幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き栄えているとするもなんの不思議はないのである。
また、いずれかの星に、まさに人間にならんとする動物がいることも考えられ、天文学者の説によれば、金星が隠花植物の時代であるとの説を聞いたことがあるが、私は天文学者ではないから、これを実証することはできないにしても、さもありなんと信ずるものである。
あるいは、たんぱく質そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかない。
たんぱく質等は、生命発生の機縁にはなるであろうが、生命自体は宇宙とともに本有常住の存在であるからである。
4、生命の連続
生命は永久であり、永遠の生命であるとは人々のよくいうところであるが、この考え方にはいろいろの種類がある。ある人は観念的にただ「永遠」であると主張してボンヤリ信じているが、こんな観念論的な永遠は吾人のとらないところである。
また、子孫に生命が伝わって、その子孫に伝わる生命のなかに自分が生きていると考える者もあるが、これでは永遠とはいえまい。もし、子孫が断滅したならば自分がなくなるではないか。地球が滅びたらなくなるような生命では永久とはいえない。
また、子孫と自分との関係において、現に、いま生きているむすこのなかに、同じく活動している自分の生命があることになり、はなはだ不合理である。このような人は、自分の死後の生命をどう考えているか。子孫のからだを自分の墓場のように考える浅薄な生命観であり、永久の生命を知っているとはいえないのである。
かの有名な高山樗牛(ちょぎゅう)先生が「人が偉大な仕事をする。その偉大な仕事は後世にも残る。その後世に残した偉大な仕事に自分が生きている」といわれたことを記憶している。
樗牛先生は、偉大な文学者であるだけに、私はひじょうに悩んだものである。
もし、先生のことばのごとくならば、平凡なわれわれや、犬やネコは永久な生命といえないことになる。よってこの場合の永遠の生命に普遍妥当性(ふへんだとうせい)がないわけである。
長いあいだ、ほんとうかウソかと悩みつづけた結果、彼は偉大なる文学者ではあるが、死後の生命に関してははなはだ浅薄な考え方であるという結論に達した。
また、少しく理論的であるけれども、事実とは相違している生命論に、生物にはなにか霊魂というようなものがあり、それが永久に伝わっていくのだと考えているのがある。
これは、ちょっと聞くと真実のように思われるので、そうとうの学者や、多数の人々によって主張されている。しかしながら、これも仏教哲学の対象としてはぜんぜん無価値なものである。釈迦は涅槃経のなかにおいて、徹底的にこれを否定している。すなわちこの考え方は邪見であって、正しいものではないとしているのである。
しからば、どんなふうにしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか。死後の問題はなかなか仏教哲学でも最高に属するもので、その素養のない人に対しては、誤りを起こすおそれがあるがゆえに、これをはぶくことにし、きわめて常識論的に取り扱うから、その点は了承されたい。
寿量品の自我偈(じがげ)には「方便現涅槃」とあり、死はひとつの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的からみれば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。
そのように、人も、老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便によって若さを取り返す以外にない。
仏法の極理は一念三千であるが、死後の生命もまた、一念三千との関連において解決されていることはいうまでもない。さて、開目抄に
「一念三千は十界互具よりことはじまれり」とおおせられ、観心本尊抄(御書P241)では十界について次のように述べられている。
「数(しばし)ば他面を見るに或時は喜び或時は瞋(いか)り或時は平かに或時は貪(むさぼ)り現じ或時は癡(おろか)現じ或時は謟曲(てんごく)なり、瞋(いか)るは地獄、貪るは餓鬼・癡(おろか)は畜生・謟曲(てんごく)なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人なり(乃至)世間の無常は眼前に有り豈(あに)人界に二乗界無からんや、無顧(むこ)の悪人も猶妻子を慈愛す菩薩界の一分なり、但(ただ)仏界計(ばか)り現じ難し 云云」
われわれの日常生活における心の状態をよくよく思索するならば、瞬間瞬間に、一念一念と起きては消え、起きては消えているのが、貪りとか、喜びとか、怒りである。そして二つの念がいちじに起こることは、けっしてありえないのである。ここで少し説明を加えたいのは、前掲の本尊抄に「仏界計り現じ難し」とあるが、その仏界を現ずる縁となるものは何か。
日蓮大聖人の仏法の極理は事行の一念三千であり、実践の形態は三大秘法にある。ゆえに本門戒壇の御本尊を信仰することのみが、その縁となって即身成仏をえられるのである。ただし、この点に関しては、別の機会に詳しく述べたいと思う。
われわれの心の働きをみるに、喜んだとしても、その喜びは時間が立つと消えてなくなる。その喜びは霊魂のようなものがどこかへ行ってしまったわけではないが、心のどこかへ溶け込んでどこを捜してもないのである。
しかるに、何時間か、何日間かの後、また同じ喜びが起こるのである。また、あることによって悲しんだとする。何時間か、何日か過ぎてそのことを思い出して、また、同じ悲しみが生ずることがある。人はよく悲しみをあらたにしたというけれど、まえの悲しみと、あとの悲しみとりっぱな連続があって、その中間はどこにもないのである。
同じような現象がわれわれ日常の眠りの場合にある。眠っているあいだは心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて起きている場合には心がある。あるのがほんとうかないのがほんとうか、あるといえばないし、ないといえば現れてくる。
このように、有無を決定できないとする考え方を、これを空観とも妙ともいうのである。このように、この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか心の働きとかいうものを思索し、そのうえに仏法の哲学の教えをうけて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。
まえにも述べたように宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命はちょうど悲しみと悲しみのあいだに、なにもなかったように、喜びと喜びのあいだに喜びがどこにもなかったように、眠っているあいだ、その心がどこにもないように、死後の生命は宇宙の大生命に溶け込んで、どこを捜してもないのである。
霊魂というものがあってフワフワ飛んでいるものではない。また、大自然のなかに溶け込んだとしても、けっして安息しているとはかぎらないのである。あたかも、眠りが安息であるといいきれないのと同じである。眠っているあいだ安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りに悩んでいる人もあるのと同じである。
この死後の大生命に溶け込んだ姿は、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、しぜんに会得(えとく)するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目にうつる生命活動となって現れてくる。ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動状態を、きょうもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は過去の生命の業因(ごういん)をそのままうけて、この世の果報として生きつづけなければならない。
かくのごとく寝ては起き、起きては寝るがごとく、生まれては死に、死んでは生まれ、永遠の生命を保持している。その生と生のあいだの時間は、人おのおの異なっているのであるから、この世で夫婦親子というのも永遠の夫婦親子ではありえない。ただ清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の大御本尊を信ずるもののみが、永遠の親子であり、同志であって、大功徳を享受(きょうじゅ)しているのである。
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第二節 法報応の三身常住
「法身(ほっしん)の無始(むし)・無終(むしゅう)は説けども応身(おうじん)・報身(ほうしん)の顕本(けんぽん)は説かれず」とは、法身の無始無終はいちおう仮説的なものである。
いまだ生命の実相を説ききったものとはいいきれない。宇宙は常住であることは、だれでもいちおう思うことであるが、その宇宙に仏が現象として常住するということは観念的なものである。涌出、寿量を除いた以外の経文は、どれもこれも涌出、寿量の二品の法報応、三身常住を説く前提であって、いまだ真実を説くものではない。
この三身常住を哲学的に説くならば、次のごとくではあるが、これはなかなか信じられないところのものである。
信じられないからウソだともいえないし、知らないからないともいえないであろう。真実の仏教が説くところの三身常住は
生命の実相であって、これこそ真のわれらの生命の状態である。
吾人が、いまここに、この境涯を説くといえども、読者がこれを了承するためには、日蓮大聖人の所立の三大秘法の仏法に帰依しなくては、絶対に証得(しょうとく)することができえないであろうということを附言(ふげん)しておく。
*注、法身の無始無終・・・・・応身報身の顕本
法身は生命、報身は心、応身は肉体である。生命は永遠であるといっても、法身という観念的なものだけが永遠につづくというのは、まだ低い生命観である。じつは一身即三身であるから、法身が常住ならば、報身も応身も永遠不滅の存在なのである。寿量品には三身常住を説く。
結論的にいうならば、吾人がいま、もつところの肉体そのものが、子供のときより老人にいたるまで、ある傾向にしたがって変化するごとく、われらの今日の肉体と精神が永遠に変化しつつ実在することが、法報応三身の常住で無始無終の生命観である。
まずわれらの肉体の変化について観察してみよう。われわれは一瞬一瞬に、肉体的にも精神的にも変化しつつ、運命のコースをたどっている。精神的な問題と運命の問題は別にして、肉体の問題のみを論ずるならば、一瞬一瞬に
細胞の増衰が行なわれて、そして七年間もするならば生物学上、目の玉のしんから骨の髄の細胞まで一新するのである。
この肉体の変化は、精神とか運命とかを根本として変化したものではなくして、われらの生命自体の働きによって変化してきたものである。その生命というものに、一貫した傾向を見ることができる。もし生命すなわち変化させる根本の原動力に定まった一つの傾向および本質がないとするならば、七年間の変化のうちに、長い指が短くなったり、目が小さくなったり、形が変わって鼻の低いのが高くなったりするはずなのに、
だいたい赤ん坊のときを基準とした細胞の増衰にすぎない。しかも、三十のときに何かの事件を起こしたとして、
それに対する責任は法律に関するとせぬとにかかわらず、四十になっても五十になっても、負わされていることは事実である。たんに肉体論からいうならば、三十七になれば、ぜんぜん別な肉体になっている。
七年前の責任を負う必要がなくなるではないか。忘れたということよりは、没交渉になってよいはずである。
いかんとなれば、脳の細胞も一変しているからである。しかるにその責任はぜんぜん別個になった肉体がこれを負い、また、その責任を感ずるのである。これは生命の連続は肉体と精神活動とを同じく、その連続に関連をもたしているからである。
生命とは心肉(しんにく)不ニにして肉体にもあらず心にもあらず、しこうして、肉体と精神にたえず反応を与えるものである。目に見えないで存在し、しこうして、目に見える肉体と精神と運命とに強くはっきりとにじみ出るものである。
われわれの生命は永遠であるとすれば、この世の中で死んで、またつぎの世で生命の活動がなければならぬ。
他の宗教では、次の世の生命活動を、西方の浄土世界とか天上界とかいうような架空の世界観をつくって、そこで生きているという。
これは法身論の生命観であって、事実の生命観ではない。つぎの世に生まれてくる世界は、われらが生活していると同様の娑婆世界である。
しからば、世間にいう生まれ変わってくるという、あのことかと思うであろう。事実はごく似たものであるが、生まれ変わるとなれば、ぜんぜん別個の人間とも考えられる。しかし、ぜんぜん別個ではありえないのである。では同じ人かというに、同じ人でもないのである。
あたかも、七歳のAなる人と四十歳のAとが、同一なりと断ずるがごときものなのである。今世のAと来世のAとは、
生命の連続においては同一生命の連続であって、肉体にもせよ精神にもせよ運命にもせよ、今世のそのものではないことはもちろんである。それは七歳のAの場合と四十歳のAの場合と同様である。
七歳のAが四十歳にいたるまで生命の連続であると同様に、肉体も精神も運命も、変化の連続をなしたごとく、今世の生命が、来世の生命にいたるとしても、今世の肉体・精神・運命が来世へと変化の連続をなすことはとうぜんである。
ここに大きな疑問が一つ生ずる。死んで火で焼いて粉にして、なくなった肉体が、死後までその肉体の連続であるということは、あり得ないではないかということである。
そこで、肉体にもせよ精神にもせよ、目に見ることのできない、しかも厳然たる存在の生命の反映であると、
さきに述べたことを記憶より呼び覚ましてもらいたい。さて、その前に、いかような状態において生命が来世に連続するかという問題を述べてみよう。
われらの生命が大宇宙の生命へ溶け込むのであって、宇宙はこれ一個の偉大な生命体である。この大宇宙の生命体へ溶け込んだわれわれの生命は、どこにもありようがない。
大宇宙の生命それ自体である。これを「空(くう)」というのである。「空」とは存在するといえば、その存在を確かめることができない、存在せぬとすれば存在として現れてくるという実体をさしているのである。「有る」「無い」という二つの概念以外の概念である。
たとえていえば「あなたは怒るという性分をもっていますか」と問われた時に「持っております」と答えたとする。それなら「その性分を現して見せてください」といわれても、現わしようがないから「無い」と同様である。「ありません」と答えたとしても、縁にふれて、怒るという性分が現れてくる。かかる状態の存在を「空」というのである。
われらの死後の生命も、この空の状態の存在である。されば、縁にふれて五十年、百年または一年後にふたたびこの娑婆世界に、前の生命の連続として出現してくるのである。さて、その生まれ出た肉体は、過去の生存、過去の死の状態をとおして連続してきた生命を基として、宇宙の物質をもって構成されてくる。
時間的の差異はあったとしても生命が連続である以上、肉体も精神も運命も、過去世の生存の連続であると断ずることができるのである。あたかも、碁を打つ人が一日打って半局面しか打ちきれない。そして、あすにしようということになって碁石をバラバラにしてしまって、もとのように箱に納めてしまう。
次の日、ふたりが、また碁盤を囲んできのう打ち終わったところまで、きのうと同様に、白黒と碁石を配置する。そして、きのうのつづきを打っていくようなものである。
生命が過去の傾向をおびて世に出現したとすれば、その傾向に対応して宇宙より物質を集めて肉体を形成する。ゆえに過去世の連続とみなす以外にないのである。このように、現在生存するわれらは死という条件によって大宇宙の生命へと溶け込み、空の状態において業を感じつつ変化して、なんらかの機縁によって、また生命体として発現する。このように、死しては生まれ生まれては死に、永遠に連続するのが生命の本質である。