家庭革命より
平等は、差別を認めてこそ成り立つものである。
男女がそれぞれの特質を認め、個性を尊重してゆくことで人間としての平等が存在し、こうした人間性の尊重こそ、新しい社会秩序の規範であると思う。
女性の「従う」ということについても、単なる盲従の美徳としてではなく、賢明な生き方である場合があり、それは女性としての生活の知恵である。
女性は、男性に従いながらたくみにリードする才能を持っている。
近代女性は主体性を持たなければならない。同時に、その主体性の確立も、女性としての特質を生かした方法を考えるべきである。
この場合の差別が「区別」「多様性」の意味で用いられていることは明白です。
ともあれ今なら炎上しかねないセンシティブな指導ですが、むしろ、ポリコレの問題点を当時(1965「女性自身」に掲載)から鋭く指摘していたといえるのではないでしょうか。
現在、学校の体育では男女合同が原則です。サッカーやバスケのようなチーム競技でもそうなので、男子は思い切ってプレイできず、女子は危険でプレイに参加できないという、誰も楽しくない状況が生じています。
トイレを男女別にするなという意見も同様です。これはトイレを「女性専用」「男女共用」に分ければ政治的には解決しますが、そもそも男女で要する時間が異なり、男性用をなくすのは不合理極まりありません。
肉体的に明白な「性差」を、政治的な都合で強引に無視しようとするところに、全ての元凶があります。雌雄の差を否定する生物学者はいません。
さらに悪いのは、「女性らしい女性」「男性らしい男性」の存在を悪と決めつけ、ジェンダーフリーを全人類に押し付けていることです。
もちろん世の中には、女性らしさに縛られたくない女性もいるでしょう。それは尊重されるべきです。それと同様に、「女性らしくありたい女性」も尊重されなければ、真にポリコレではありません。
世界中の軍人の半数が女性となり、痴漢で捕まる犯人の半数が女性となったら、それはまさに男女平等ですが、その世界に生きる女性は今より幸せといえるのでしょうか?
フェミニズムの目的が「この世から不幸な女性をなくす」点にあることを、片時も忘れてはいけません。
柔道では自分から攻めようが、返し技だろうが、一本は一本です。自分からリードしようが男性にリードさせようが、要は幸せならそれでいいのです。
間違っても、全女性を「男性化」することがフェミニズム本来の目的ではないのです。