新・人間革命「光城」には、いまや広宣流布のモデル地帯といわれる奄美大島の広布史が紹介されています。
奄美出身の富岡トキノさん(仮名)は夫を結核で失い、自らも結核に侵され、娘の虚弱体質にも悩んでいました。
30代の青年時代に、福岡の地で発心し、法華経に帰依。折伏した相手に池に突き落とされたこともありましたが、見事に病を克服し、確信をつかみます。
奄美に戻ったトキノさんは村八分の扱いを受け、集落内では何も売ってもらえませんでした。祭りで神輿をぶつけられ、家の壁を壊されたこともありました。息子も解雇され、収入減も絶たれました。会合に乗り込んできた酔漢に殴られたこともありました。
それでもトキノさんは、岩にしがみつくような覚悟で弘教を続けて、300人もの法華信徒が島に出現したのです。
すると村八分は、他の同志にも拡大されました。学会員の店に買い物に来る村民はいなくなり、従業員も次々と辞めていきました。
その中で残念ながら、3人に1人の会員が退転しましたが、残った同志はお互いに助け合い、弾圧を乗り越えていったのです。
島中に法華経への憎しみが渦巻く中で、池田先生は奄美訪問を決断されます。危険すぎるからと幹部が止めますが、
「今だからこそ、行くんです。むしろ、遅いくらいです。私の身に何が起ころうが問題ではない。私は、奄美の同志に申し訳なかったと思っています!」
そう獅子吼され、奄美訪問を断行されたのです。
池田先生の命がけの激励指導が原点となり、奄美はいよいよ大発展していきます。
今では3割の世帯が題目を唱える村もあり、政財界で活躍するメンバーも大勢います。
全ては1人立つ青年で決まるのです。