2019年2月の大白蓮華に、かつて福岡に存在した「ドカン」と呼ばれたスラムでの広布の模様が紹介されています。
地元女性の折伏からドカンに法華経が広まり、最盛期には地域の半数以上が学会員になったそうです。
それと同時に児童の就学率も向上し、犯罪も減っていきました。
拠点を提供する夫妻は鮮魚店の経営に成功し、毎日のように、激励のアラ鍋を同志に振舞ったと言います。
病気の同志がいればかゆを作り、葬儀があれば皆で棺桶を手作りしました。
まさに家族同様の支え合いがそこにあり、だからこそここまで広宣流布が進んだのです。
「食事まで提供するのは同志を甘やかすことになる」
という考え方もあるでしょうが、だったら、財務は「本部職員を甘やかす」ことになってしまいます。
職員だけに供養を受ける権利があるという考え方は、仏法とは何の関係も無いカルト思想です。
最高幹部に供養を受ける権利があるとしたら、全会員に、等しく同じ権利があるはずです。
あなたが現在、本部に財務できる境涯にあるのに、同志に激励のジュース一本差し入れしようとしないとしたら、信心が濁っています。
学会員はお互いに供養し合い、共に功徳を受けていくことです。
ただし、供養は決して組織的にやってはいけません。
「今年の財務は地区100万が目標なので、役職者1人10万はお願いします。地区部長が集金してまとめて振り込みます」
なんて打ち出しはありえませんよね?
組織としては、供養を「しろ」とも「するな」とも言えません。
幹部だからと言って、自腹での供養が強制されることがあってはいけません。
「その上で」自発的・個人的に供養するからこそ功徳があります。
いわば供養の姿にこそ、その人の境涯が反映されると言えるのです。