昭和31年の参院選において、東京地方区の学会候補である柏原ヤスは、当選確実の予想を裏切り、まさかの落選でした。
これに激怒した戸田会長は
「二度と会長室の敷居をまたいではならぬぞ!」
そこまで言われたそうです。
もちろん、勝敗は兵家の常であり、全力を尽くしたうえでの落選であれば、そこまで責められることもなかったでしょう。
しかしこの戦いは、あまりにも呼吸がバラバラであり、また形式的すぎました。
支援責任者は、理事の石田次男でした。
連日、街頭遊説に学会員を結集します。しかし、集まるのはいつも同じ顔ぶれ。これで票が伸びるはずもありません。
初の選挙戦だったこともありますが、何をすればいいか分からず、形だけ他陣営の活動を真似ているだけでした。
折伏戦で地道に世帯を増やしていった「大阪の戦い」とは、雲泥の差です。
報告も、現実離れしたいい加減な数字ばかり。
忙しい投票前夜に幹部を大結集し、「明日は100万票出すぞ!」と、勇ましく宣言しました。
しかし、結果は20万にも届かず。ほとんど内票しか入りませんでした。
それでいて、石田はヘラヘラ笑っていたといいます。
「次は私が指揮を執る」と宣言された戸田先生ですが、その願いはかなわず、翌々年に逝去されました。
昭和34年の雪辱戦では、師の遺志を継いだ池田大作総務が指揮を執り、16万とされていた固定票の3倍にあたる47万を獲得し、柏原候補は堂々のトップ当選を果たしました。
将の一念だけで、結果はこれほど変わるものなのです。
また、こうした歴史から、おおむね「内票の300%」を、得票の上限値と見ることができます。
それ以上に得票を伸ばすには、折伏で世帯を拡大するしかありません。
今回の都議選では、およそ60万票を獲得したにすぎません。もちろん公明党が立っていない選挙区もありますが、それを考慮しても、内票が30万程度しか入っていない可能性があります。
1400万都民のうち、学会員が実質30万人しかいないとしたら、とうてい広宣流布には程遠いと言えます。
やはり、全力で折伏すべしという結論に落ち着くのです。
私たちが世間並みの通り一遍の選挙活動の真似事をしたら、看板、鞄、地盤という名声、金、地盤もない我々の戦いに勝ち目のあるはずはありません。また、そんな汚い選挙をしたいとも思わない。
われわれは選挙のための選挙をやっているのではない。しかし今は選挙、選挙と先走ってしまい、日頃の学会活動なんか、かまっておられるかということになってきた。
信心を邪魔にさえ思い、選挙一辺倒でなければ勝てないように錯覚している。
広宣流布の戦いは広大で長遠です。たかが目先の選挙ぐらいで信心を見失っていてどうしますか。
座談会も地区講義も堂々と開くべきです。家庭指導もさらに活発にやらなくてはならない。
いつの間にか選挙体制にしてしまった組織を、元の信心の組織に戻して、それを強化することが、今一番大切な緊急時だと、私は考えています。
人間革命「展開」より