忍者ブログ

21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

病気が治るのは方便

病気を治したくて信心を始める人は多いと思います。

実際、お題目を唱えることで不治の病が治ったという体験は沢山あります。

ただし、間違えてはいけないのは、病気を治すことが信心の真の目的ではないということです。



生老病死は生命のリズムですから、どんなに健康な人でも、最後は必ず何かの病で命を落とします。

もし、全ての病が治るとしたら、信心している人は誰も死なないことになります。

これは、ひとつの肉体に永遠に縛られることになり、かえって不幸です。



したがって折伏する場合も「どんな病気も絶対に治る」などと言ってはいけません。

医者でもないのに診察まがいのことを言うのは、法律にも触れます。

また、同志が亡くなった時に「あんなに強信の人でも助からなかったのか」と、不信を広げてしまいます。

適当な寿命で死ぬのは、本人にしてみれば幸せなことなのです。

もし、300歳まで死ねないとしたら、200年くらいは寝たきりになってしまいます。そうならないよう、そこそこ元気なうちに寿命が尽きるようになっているのです。



大切なのは、死の床に就いたとしても、所願満足で人生を終えられることです。

どんなに長生きしても、最後に病で苦しんで死ぬのであれば、病苦の宿業を転換できたとは言えません。

肉体の苦痛は鎮痛剤などで取り除けますが、生命の苦しみは、宿命転換しなければ消せません。

「老いても幸せ、病んでも幸せ」

心の底からそう言い切れるようになることが、信心の真の目的です。



なおかつ、その素晴らしい境涯は、三世永遠に続きます。

信心の福運は、今世で尽きるものではないからです。

それを思えば、今世で少しばかり病に苦しんで、信心に巡り合えたことは、あなたにとって最大の「幸運」だったと言えるのではないでしょうか。




拍手[77回]

PR

コメント

ただいまコメントを受けつけておりません。

プロフィール

HN:
真蓮 ※削除依頼等はお手数ですが「拍手」をクリックしてからコメント欄に記入してください。
性別:
非公開

P R