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21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

戸田先生「罰と宿業は同じ」






※戸田城聖全集より




[質問]:二年前に入信して、その後、御本尊様を返却したところ、そうとうな罰を受けました。ふたたび今年四月二十二日に入信しましたが、またあれやこれやの罰がでて、五月一日には、相手が人事不省になるほどの交通事故を起こしたので、班長に指導を受けておわびに登山しましたが、今後も、罰がでてきますか。家族の考えとしたら、もしも罰がでてきたら、とても恐ろしくて、御本尊様を持っていられない、「さわらぬ神にたたりなし」だから、また返したほうがいいのではないか、というのですが。



罰という問題ですが、これは、仏様が罰を与えるというふうにとるのは大間違いです。罰というものは、自分のもっている運命がでるものなのです。罰を与えるとかなんとかということを、よくいっておりますが、そんなものではないのです。

罰というのは、宿業のことなのです。自分の身にもっているものがでるのです。それを罰とも宿命ともいうのです。どんな仏様でも、罰なんか与えるわけはありません。ただでるだけのことです。御本尊を持(たも)っていると軽くでるのです。

山に登った者はかならず降りなければならぬと日蓮大聖人様はおっしゃっています。過去世からもってきた宿業は、かならずださねばならぬとおっしゃっています。ですから、罰というものは、わが身にあるものが、でるのです。それが軽くでるのが、この仏法の極理なのです。

ですから、おそらく、いま苦しいかもしれませんが、軽いものだと思っております。もしそれが、この御本尊を受けなかったら、重くでるのではなかったかと、私は思うのです。この御本尊をいただいておりますれば、でるのが軽くでるのです。

この片腕を取るという宿命の場合、小指一本取られたとします。片腕の代わりに、小指を取られるということを知らない場合には、御本尊様を拝んで小指を取られたではないか、そんなばかな話はないではないかと思うのです。

しかし、片腕を取られることがわかっていて、小指が取られたのなら「ああ、助かった」と思うのです。

そこです。これを転重軽受(てんじゅうきょうじゅ)法門というのです。そういう法門の理でありまして、私はいまのご質問の方は、それでも、軽く受けているのではないかと思うのです。

ここで、また、御本尊を捨てたら、その運命は、また重くくるのです。軽く受けさせてやったのに、まだ文句いっている。そんなばかな話はないではないですか。それは、罪というものは、それで消えているはずなのです。二度続くはずはないわけなのです。軽く受けているのです。

私は、そう断じます。ですから、それを、変毒為薬(へんどくいやく)と申しまして、毒を変じて薬となす。そのことがあなたの信心と、あなたの誠意とによって、かならず軽く、そしてまた、そのことが、あなたの一生の生活に、得になってくるはずなのです。変わってこなければならないはずです。

まだ、これはほんとうの信心ではありません。いま、あなたは苦しいでしょう、嘆くでしょう、つらいでしょう。

そのことが幸せに変わらなかったら、ほんとうの信心ではありません。御本尊様はほんとうであるというわけにはいきません。悩み、苦しみ、そのことが幸せに変わってこなければいけない、それが御本尊様の功徳なのです。

ですから総本山に登った以上は、大御本尊様にたいして、あなたの心からのことをお願いしなさい。かならずとおります。とおらなかったら御本尊様ではありません。かならず、あなたの願いどおりになります。おわかりですか。

御本尊を返すなどとは根性がよくありません。そんなことをするから、ろくなことが起こらないのです。ただ宿業のままにでてくるのです。御本尊様を拝んでいれば、宿業のままにでても、軽くでます。同じ形ででるけれども、軽くでるのです。

それでそれが、ご利益に変ずるのです。そこが大事なことなのです。この御本尊様のありがたさはそこなのです。

持っている宿業のままにでて、それが罰として現れるのですが、宿業のままにでて、そのままで終わったのでは、たまったものではありません。前のなにをやったか知らないことがでてくるのですから、こちらが悪いことをした気持ちはないのですから、

前の世でやったからといって、でられたのでは、たまったものではありません。どうですか諸君、それは軽く、だしてもらって、それがこっちのもうけに変わらなければなりません。それを変毒為薬というのです。毒を変じて薬となす、そこが大事なことなのです。

中風で困っている、それは前の世で中風になるようなことをしたから中風になっているのです。それが釈尊の説法です。そんなことを聞いて 「ああ、そうでございますか」 といって、中風で「うんうん」といっていても、たまったものではありません。

その中風がなおって、そして前よりじょうぶになったら、毒変じて薬となったのでしょう。それでいいではありませんか。 「おまえは貧乏している、前の世でドロボウしたからです」「それでよくわかりました」 と、わかって貧乏したってしようがないではありませんか。

貧乏変じて金持ちになった。けっこうなことではありませんか。それが御本尊の功徳なのです。悪い宿業変じて、いい宿業に変わる、それが変毒為薬ということです。いま、あなたの苦しみは、そのまま変じて、かならず、薬にならなければならないはずです。

私のいうことを信じて、御本尊様に向かって、御開扉願った後であったならば、こちらの、これは御開山日興上人様の御本尊ですから、この御本尊様にきちんと、お願いして帰りなさい。

かならず願いどおりになるはずです。ならなかったら私のところへ、文句をいってきなさい。断じてひき受けます。






このように戸田先生は、宿業と罰を区別されていません。

そもそも罰を受けるのは、あなたが「罰を受ける宿業」を持っているからです。

根本的には、信心によって宿命転換するしかありません。

また肝心なのは、戸田先生が釈迦の因果応報を否定していることです。

釈迦(爾前)の因果論には、変毒為薬の法門が説かれていませんので、罪障消滅には途方もない時間がかかります。

生きているうちに成仏することなど不可能です。

しかし日蓮仏法では、過去世の宿業そのものを方便とします。方便なので、ないと思えば一瞬で消えてしまいます。

太陽が昇れば、屑星の光が消えてしまうようなものです。もちろん日中でも星はありますが、光が小さすぎて肉眼では見えません。あるけどないに等しいのです。それと同じようなものです。

過去の世界はすでに消滅しているのだから、過去が現在のあなたを苦しめることは不可能なはずですよね?

過去世は「空」なのです。
それを「実」と思い込み、宿業だけが時間を超えて残るという生命の思い込みこそが、元本の無明です。

本当は、一切衆生には何の宿業もなく、苦しむ理由もありません。そう信じるしか、宿命転換する方法はありません。心が全てです。

もちろん、現在の謗法の罰は現在に出ます。しかし、現在だけなので「軽く」受けるだけで済むわけです。

方便に過ぎない過去の宿業で苦しむほど、バカらしいことはありません。だからこそこの信心で一刻も早く変毒為薬すべきなのです。



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