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21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

なぜ激励されても歓喜が無いのか







今の創価学会の最大の問題点が「指導激励が形式になっている」ことです。

あなたも、激励を受けたものの、分かり切った話を聞かされるだけで、全然歓喜を感じられなかったという経験を持っているはずです。

特に、大きな悩みを抱えている時、同じような悩みを乗り越えた経験のない幹部に「祈れば必ず解決する!」と言われても、説得力がありません笑

間違ったことを言われているわけではないのに、なぜか心に響かないのです。



要は「悩みが解決しないのは、君の祈りが足りないからだ」という内容の激励になってしまっているわけです。

これは激励ではなく、ただの説教です。

説教されて元気の出る人はいません笑

かえってやる気がなくなります。



そもそも、自分自身の悩みの解決を祈っていない当事者など、いるわけがありません。祈らずにいられるでしょうか? 誰だって死に物狂いです。

もちろん、どんなに祈ってもこれで十分ということはありえないので、「まだ祈りが足りない」という指導も、間違いではないでしょう。

ただ、それを第三者が「上から目線で」指導する資格は無いはずです。



激励の根本は、メンバーのために必死で祈ることです。

日蓮大聖人は、弟子が悩んでいると「頭が割れんばかりに」解決を祈られました。

祈らずに激励するから、形式になってしまうのです。

「君の悩みが解決するまで、僕からも毎日お題目を送ります!」

本当は、それだけで十分なんです。



もちろん、本人の悩みは本人が祈ることが基本です。

しかし、

「君の悩みなんだから君が祈りなさい」

と突き放すだけで、誰も題目を送らないのであれば、学会の組織などいりません。

「水魚の思」です。同志の悩みを、我が悩みとして祈っていくところに、信心の血脈があります。

突き放すことは、決して信心の激励ではないのです。



もちろん、厳しい指導が必要な場合もありますが、それもあなたが彼のために祈り続けていることが前提です。

祈る気がないなら、激励などしないほうがマシです。

「これだけお題目を送っているのに、まだ解決しないのは、君自身の祈りが足りないからだ!」

そう断言できるほど、同志のために祈っている幹部が、どれだけいるでしょうか?

お題目を忘れれば、学会活動ですら魔として働いてしまうのです。








総じて日蓮が弟子檀那等(でし だんな ら)・自他彼此(じたひし)の心なく水魚の思(すいぎょのおもい)を成して異体同心(いたいどうしん)にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処(ところ)を生死一大事の血脈(しょうじいちだいじ の けつみゃく)とは云う(いう)なり

生死一大事血脈抄

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