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21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

なぜ「南無池田大作先生」ではいけないのか







池田大作全集77 360頁より

学会もこれまで、「会長本仏論」など、こちらが聞いたこともない(笑い)想像すらできないような珍説をたてているかのごとく宣伝され、それを圧迫の口実とされてきた。





「池田先生が永遠の師匠であるなら、先生の写真を本尊にして、南無池田大作先生と唱えてもいいではないか」

中には、そう思っている人がいるかもしれませんが(特に偉い幹部の皆さん)、完全にありえません。



日蓮仏法では、本尊に対して極めて厳格です。

大聖人の御影を本尊にすることも、「南無日蓮大聖人」と唱えることも、決して許されません。

仮に御影を本尊にしたとしても、外見が御影に似てくるだけです。大聖人の外見に成仏の因があるわけではないので、御影に本尊の資格はありません。

日蓮像ですら本尊ではないのです。日蓮仏法では、個人崇拝は徹底的に排除されています。

三世十方の仏は、全て南無妙法蓮華経によって成仏しています。したがって本尊は南無妙法蓮華経以外にありえません。

外見ではなく「音声」こそが成仏の因であり、本尊です。これは御影では表現できないので、大聖人は文字曼荼羅を顕されたのです。



まして、先生は池田本仏論を何度も明確に破折されています。

先生は「私を根本にせよ」などと指導されたことは一度もありません。常に題目根本、御書根本です。

そもそも、先生が末法の本仏であるなら、「南無妙法蓮華経 大作」の本尊を顕さなければならないはずです。

もちろん、そのようなものはありません。



師匠の教えに従うことが弟子の道であって、師匠を「悪しく敬う」ことは、仏法でも何でもありません。個人崇拝など下等なカルト思想です。

師匠個人を本尊と混同してしまえば、いくら熱心に南無妙法蓮華経を唱えても、心で「南無池田大作先生」と唱え、己心の外に法を求めているので、功徳は無いのです。

かの足軽会3人組は、口では「自分たちこそ先生の弟子である」と吹聴していますが、勝手に「池田教」を創作して、師匠を悪しく敬っているようにしか見えません。

結局は個人崇拝のカルト信者なので、いくら口先でお題目を唱えても、功徳は無いのです。






妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外法あり と思はば全く妙法にあらず 粗法なり

一生成仏抄

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