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21世紀の日蓮仏法

念仏撲滅 禅撲滅 真言撲滅

寝たきりの余生に意味はあるのか

医学の進歩に伴い、生老病死の苦しみは長引くことを避けられなくなっています。

多くの人は、人生の最終章を、寝たきりの状態で迎えることになります。

長生きすればするほど、足腰は立たず、目はかすみ、認知症も進んでいるでしょう。

その期間は数週間かもしれないし、数年に及ぶかもしれません。

「そうなってまで生きていたくない、生きている意味がない」という人も少なくないでしょう。

しかし、死に方は選べませんから、どうなってもいいように、心の準備が必要です。そのために仏道修行があります。



寝たきりの老人や病人、障がい者には、確かに経済的生産性はありません。

だからといって、生きる価値が無いと考えるのは、ナチスの優生思想と同様です。

生産性を云々するなら、全てのペットは生かしておく価値がないことになってしまいます。

日蓮大聖人も、日興上人も、日目上人も、檀那の供養に生活の糧を依存していました。

生産性という次元では、寝たきり老人と変わりません。

だったら、大聖人は生きている価値が無かったのでしょうか?

同様に、あなたが一生寝たきりだったとしても、生きる価値が無いなどとは、絶対に言えないのです。



法華経の行者に供養する人は、大功徳を得ることができます。

自分だけでなく、眷属まで救っていけるのが、この法華経の偉大さです。

あなたが寝たきりで、介護を受ける期間が長ければ長いほど、周りの人に功徳を回向することができるのです。

これは、立派な法華経の修行です。断じて、無意味な余生などではありません。

寝たきりの同志は、「寝たきりになることが使命」なのです。その使命がなかったら、すぐ死んでいるはずです。



あなたの周りにも、老いや病、障害によって満足に働けない、動けないという同志がいるはずです。

彼らは、あなたが大功徳を積むためのチャンスを与えてくれたのです。

感謝合掌しながら、激励の品を届け、車椅子を押してあげてください。

「病気がなかなか治らないのは信心が足りないからだ。学会の恥だ」

などという一念で病魔と闘う同志を見下すのでは、あまりにも冷酷無慈悲です。それは決して、仏になるための心構えではありません。

健康か、病気かという基準は、まだ相対的幸福に縛られています。元気でも寝たきりでも、関係なく幸せになれるのが、真の成仏であり、絶対的幸福です。

生老病死の苦しみを抜け出し、最後の瞬間まで尊厳ある人生を貫くには、この法華経に帰依するしかないのです。








先臨終の事を習うて後に他事を習うべし


妙法尼御前御返事



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