方便品壽量品講義より
よく折伏に行って「罰を当てて見せる」なんて、さも自分が当てて見せるみたいにいう人がおりますが、そんなものではありません。
罰というのは出させるものではない、自然に出てくるものであります。
戸田城聖 人間革命「厳さん活躍」より
罰が当たるのではなく、罰が起こるのであり、罰が出るのだが、世間一般の人は、こういうと怒って、罰を当てるような信仰ならしないという。
牧口先生に折伏されて入信した学会の幹部でも、先生が罰論を厳しく説かれると、それを心から理解して、先生について行く者がいない。むしろ離れていこうとする者さえいる。
それを押えて離さないでいるのが、今のわたしの精一杯の仕事なんだ。
世間では罰というと、神仏が天から眺めていて悪人に罰を与えるようなイメージがありますが、これは罰と祟りを混同しています。
仏法における罰は、自分の生命から出るのです。いわば自分で自分を罰するのです。
罰が出るということは、「罰が出る宿業を持って生まれてきた」ということになります。
つまり罰と宿業は同じなのです。
さらに言うなら、あなたが過去世から重い宿業を積んできたのは、全て、あなたを成仏から遠ざけようという久遠元初以来の魔の働きです。
諸難といっても、根本は第六天魔王の働きなのです。
従って罰を消すには、魔を破るしかありません。すなわちお題目です。
南無妙法蓮華経だけが、全ての罪を滅する力を持っているのです。